ウォルツ『国際政治の理論』(7)

9章 国際関係の管理
 
さて、名残惜しいことに、ウォルツも最終章ということで、管理についてまとめてちゃちゃっと終わりにしたいと思います。

まず、パワーの効果についてウォルツは示す。即ち、1.自立の維持2.行動の幅が広がる3.どのゲームがいかにプレイされるかについてより大きな発言権4.システムに対する利害関心と、そのために行動する能力を持つ、という四つである。そして9章の主題はまさしく、国際関係の管理がどのように行われるか、である。


 どうして国際管理の議論が出て来るのか。それは、「大型で複雑な自己制御システムがもっともうまく作動するのは、工夫された秩序のなかでしかありえない(p.259)」のであり、そのため、どのようにして管理が行われるのかということは我々に齎された急務なのである。
 しかしながら、この実行のためには困難が付きまとう。それは集合行為の困難である(いわゆるオルソン的な論理を考えれば解るだろう)。それでは、これをどのように乗り越えたらよいのか。結論は容易で、より少数の強力な国家が、多くの小国への管理を行えばよい。そして、大国の数が少なければ少ないほど、その関係性はクリアになる。
 それでは、ここで管理されるべき、集合行為任務とは何か。


 集合行為任務とは、ウォルツによると、1.システムの変換もしくは維持、2.平和維持、3.経済その他の共通問題の管理である。システムとは維持されるか変換されるかである(p.264)。そしてシステムの管理者たる、システムの構成要員(つまり大国)が、多くの場合、極体制に影響を与える。ここでは、ソ連を撃滅すること、あるいはヨーロッパの統合ということから、極の増減について、その影響と共に分析している部分であるが、なにぶん過去の話なので、ここは流す。ただし意識されたいのは、二極体制の成熟により、システムは変換から維持へとその目標を変更させたという事実である(pp.269-270)。デタントとは、ウォルツによれば、国際秩序の再編のようであったが、その実は主要アクター間の秩序だった平和的関係の形成こそが重要であり、そのために相互利益のため協力し合った状況だった。


 国際関係は、そのような大国間の関係によって管理されている。大国が自国の利益のために、勢力均衡に則って行動することが、小国にとっての集合罪として機能するのである。ヴェトナムも、別にあれがグローバルなパワーバランスのためになったというよりも、また利潤や必要のために戦ったと云うよりも、世界の公共善のために行動した結果と言えよう。そしてこの管理とは、とても困難であり、歓迎されないことも儘ある。にも関わらず、第二次大戦後、米国は管理をしようとし続け、そこには危険性も伴った。


 最後に多くの国家の共通の問題がある。ウォルツは4つのP(貧困、人口、公害、拡散)からこれをまとめた。しかし酷いことに彼は、ここには2頁にも満たない説明しか施さない。ともあれ、アメリカが管理する必要性、そして逆に、アメリカとソ連がもっとも管理される必要性があるということを述べて本著は締められている。


ここはまさに、コヘインのAfter Hegemonyにおいて上手く批判されたところである。それは、コースの定理の議論を当てはめたとき、より少数の強力国による管理などなくても問題は乗り越えられるという議論である。

次回のエントリーはこれまでの議論をまとめた後、よくある批判のまとめ、それから自分の観点から見たまとめを行って終わりにしたいと思う。そしたら次は何について書こうかなー。

ウォルツ『国際政治の理論』(6)

続いて。

8章 構造的原因と軍事的影響

 数が少ない方が好ましいということを7章で示した。それでは、2という数がベストであるのか。これが8章での試みである。


 「国際政治システムが安定しているということは、2つのことを意味している。第1に、それがアナーキー状態であることが変わっていないこと、第2に、国際システムを構成する主要当事国の数が重大な形では変化していないこと、である(p.214)」。そう考えたとき、「1945年まで、国民国家システムは、つねに5カ国以上からなる多極システムであった」のであり、われわれは2つの国際システムしか見たことがない(p.216)(二極か多極か)。


 定説では、2カ国しかないと勢力均衡システムは不安定であり、調整+バランサーを考えたら5カ国こそが洗練されたシステムだと捉えられる。しかし、かような柔軟な同盟関係が機能するには、前提として、「ある1カ国以上の国家が他国を脅した時に、侵略国となる国に対抗してバランスをとるために、一方の側に加担するか他方を裏切る国家が無くてはならない(p.217)」。
 ウォルツはこのような状況において、国家は「もしそれが本当に真剣にプレイされるならば、プレーヤーを2つの対立する陣営に押しや」られると考える。多極においては、関係性は流動的である以上、予測はいつまでも不確実なままである。それに対して、2極においては、軍事的相互依存は減少し、自らの能力のみによってバランシングを為す。そのような2極世界の同盟の硬直性こそが、結果として「戦略の柔軟性と政策決定の自由の拡大を促している(p.224)」。米ソともに、長期的な計画を作成しており、同盟国の便宜のために戦略変化などさせないからである。


 米ソともに、たがいに対して対処しなければならない。その際に重要なのは、危機が訪れないことである。しかし、多極世界においては、いくつもの大国間の関係があるのであり、誤算による危険がありうるのに対し、2極世界では互いのみを見ていればよいという点において、すぐれている。例えば軍縮問題につて考えを及ぼすと解りやすいかもしれない。


 では現在(1979年)の2極体制の存続性は如何ほどか。これを考えたときに、当然、核兵器の問題は出て来るだろう。しかしそれだけでなく、さまざまな技術レベル含めて、多くの戦略および戦術レベルのける軍事やその他あらゆるパワーを算出、維持できる資源がある。つまり、超大国クラブに参入する障害は尋常でなく高いのであり、2極体制はまだ続くだろう。


 それではこの状況において、ホフマンの言うように、米国は、「自由裁量を持つ支配者ではない」と言えるだろうか。これはつまり、大国間の核の膠着状態において、中小国の行動こそが重要になるという考え方である。しかしこの考え方は、パワーの保持と軍事力の使用を混同しているのであり、確かにあまり使用は出来ないかもしれないが、だからと言って保持しているパワーに使用可能性は大きくは関わらない。
 軍事力そのものが、使用する必要のないかたちで作用しているのだとすれば、これは一体どうなるのか。そもそも社会的営みや政治的営みのネットワークは、意図と動機、抑止のための脅しと懲罰によって紡がれているが(p.246)、そのどちらにも考慮する必要性があり、特に国際政治においては後者に焦点が当たる。そしてその時、核兵器は現状、核兵器によって使用不可能なようになっているが、むしろ使用不可能なときこそ、それは最も有用だと言える。また軍事力のベクトルは分解されうるものであり、通常の軍事力も同様に使用されてきているのである。
 それから、支配を確立できない国に関して、そのパワーの欠陥を言うのもまた誤りである。パワーと支配を混同してはならない。「強要」(シェリング 1966)と、敵を思いとどまらせることを比べたら、後者の方がずっと容易である。ベトナムについて考えを及ぼせば解るように、軍事力にも限界はある(これは弱さではない)。パワーとは、得られるかどうか解らない結果から推論するよりも、能力分布の観点から定義されなければならないだろう。


2大国の方が、多極よりも互いにうまく付き合っていける。だからと言って、それは世界の問題への対処可能性を意味しているのかというと、パワーと支配は異なるわけであり、そう簡単な話とも言えないだろう。9章は国際管理の議論である。<感想>
いくつか面白いことを言っている。思いとどまらせることと、支配ないしは「強要」は異なる。これは正しく。ではパワーとは何ぞというと、実はその定義は、7章に有るとおり、包括的に判断しようぜという、何とも弱いものだったりする。ずるいけど、それが現実なのかもね。

ウォルツ『国際政治の理論』(5)

さらっと流したいと思っているのに、切り捨てる能力の低い僕の欠陥のせいで、いつも記事が長くなる。どうしよう。ともあれ、第7章です。




7章 構造的原因と経済的影響

 本章は、大国の数が多い場合と少ない場合を比較する部分に当たる。さらっと進める。

1.極の数とパワーの測定
 そもそも、極の数を測定することは困難である。これはあくまで、常識の範疇によるものであり、経済を見るべきか、軍事力を見るべきか、それとも人口を見るべきか、という問題として我々は捉えがちであるが、「別々に測ることは、できないのである(p.173)」。しかしその状況において、歴史的には、国家の能力は不平等であり、結果に影響を及ぼすことができる国家の数は少ない。

2.不平等性の美徳
 少数の大国と多数の小国のあいだに能力の不均衡があるからといって、「その利点を見逃してはならない」。「社会的・経済的集団の存在は、社会における不安定性を減少させる」のであり、国家の不平等性は、平和と安全を可能にすることがありうる。

3.少数からなるシステムの特徴
 かようなシステムにおいて、生き残ることは他の目標を達成するための必須条件であり、目標として利潤より優先される。それゆえ国家は、安全保障上の要請をまず検討したうえで、国益を満たそうとするものである。それでは、いったい大国の数はいくつであればより適切であるのか。

4.少ないより、より少ない方が美しいのはなぜか
 当事者が多ければ多いほど、状況は安定する。「システムは、構造が持続する限り安定する」のである。それから、(鄯)大きな存在は、自らの面倒をみる多くの方法を見出すことができ、(鄱)安定とは他の存在による参入への障害が多い時に起こり易く、(鄴)交渉のコストは当事者の数が増えるにつれ増加する(C=(n-1)n/2)。そのため、数が少ない方が状況は安定しやすい。
 とは言え反論もありうる。つまり、アクターによって相反する目標を持っているとき、あるいはシステムとユニットの目標とする状況が異なるとき、どうしてユニットにおける、「適切」なシステムについて語り得るというのだろうか。これについて彼は、しかし国際政治システムにおいてはユニットの命運によって判断されるものであり、システムの恒久化に満足ができないため、結果としてユニットの命運=自己目標性に執着せざるをえなくなる。



 それでは、「国家間関係はシステムの変化にともない、どう変わるのか(p.183)」。この問いに対して、7章では経済的相互依存を、8章では軍事的相互依存について考察される。今日、よく言われる議論として、(鄯)非国家アクターの興隆(鄱)非米ソの興隆(鄴)地球的課題(鄽)相互依存、の観点から、国家がしだいに相互の活動で絡み合うようになった、と言われるが、ウォルツはむしろ、今日は依存度が低いと考えている。指標は二つ示される。
  1.敏感性としての相互依存
  2.相互脆弱性としての相互依存
である。そしてこれらについて、ウォルツは、大国の数が減るにつれて、相互依存度も減っていると考えている。

Ⅲ 実践…以上の理論的な考察に関して、実際がどうなっているかを分析したのが以下に当たる。
1.経済的状況…ウォルツの分析によると、これは戦後ずっと低いままである。
2.政治的影響…当然、アメリカも含めて、どの国も他国の影響によって傷つくものである。とは言え、程度問題がある。「アメリカはどの国よりも、自らが望む選択肢に高い代価を払う余裕がある。」(p.206)

Ⅳ 小括…大国の数は少ない方が良い。とは言え、経済的な相互依存度は大国の規模によって変化するが、大国の規模はその数とは完全な相関関係にはない以上、どの数が適切かというのには答えられない。



<感想>
 結局、アメリカは相互依存度はかつてに比べても低いよ、それに大国の数が少ないという美徳は守られているし、大丈夫大丈夫、いい状況いい状況、ってことかしらん。そして、もし経済的相互依存度がものすごく高まったら、それはつまり大国の規模自体が変化している状況と言えるわけで。しかしそれを数の問題に帰していいわけでもない。???
 なんか、だったら一体、これは何の考察だったんだろうかという気がしないわけでもない。

ウォルツ『国際政治の理論』(4)

では次に、第六章に取り組む。一般的には、前回の五章と今回の六章は、米国の大学では必読の類に入るらしい。しかし、実はこのあたりから僕の興味は薄れていくので、どんどん密度が低くなることをご了承あれ。この後の、七八九章は、本気でさらっと流す予定なので、これが最後の気合入った回です。


六章 アナーキーという秩序と勢力均衡

1.国内の暴力と国際的暴力
 アナーキーとは、政府の不在であり、それは即ち暴力の発生と結びつく。国内であっても、自国の体制への武力行使を憂慮していたという点において、あまり大きな違いがあるわけではなく、国内と国際において存在する差異とは、それに対処する組織形態の違いであり、正統な軍事力の使用を独占出来ているか否か、である。

2.相互依存と統合
 ここではまず、国内の経済的分業の観点から、国際政治との差異が語られる。そしてなぜ国際政治では、国内のような分業体制→相互依存→共=行動が起こらないのかが語られる。国際政治は自助システムのため、自国を守る手段を備える必要があり、そのため①他国に取って有利になるかもしれない利益配分に懸念を抱くし、②互いに依存してしまうことを恐れるため、協力は阻まれる。結局アナーキー下では、独立を維持せざるをえないというわけである。

3.構造と戦略
 システム(構造)の影響により、アクターの行動の動機と結果は切り離されている。では、戦略の調整によって、「小さな決定の累積によって「大きな」変化がもたらされる」(p.143)ことはありえないのだろうか。構造とはユニット間の能力分布を変えることで変化しうるのではなかったのか。これについて、ウォルツは、それはそうだが、ではそれは一体どうやって達成されるのか、またシステムの面倒をいったい誰が見るのか、という問題から無理であると断ずる(p.144)。しかし一方で、危機が達成すべき目標の明確化を可能にするという議論もある。これも適切だろうが、だからと言って、それが適切な行動をもたらすかどうかは解らないであろう。

4.アナーキーの美徳
 アナーキー=自助であることは何度か見た。それはリスクを伴うことであり、その調整コストを減らすのに有用なのが、ハイラーキカル(階層的)な秩序であろう。しかし、闘争の領域である国際政治では、上位の権力に秩序を委ねるというのは、その権力の正統性という観点からも、しかし難しい。自分の問題に集中した方が、実は多くの自由を享受できる可能性もあり、より良いということもありうる。

5.アナーキーとハイラーキー
 現実問題として、そう簡単に二分できるものでもない。とは言え、この二つの類型の間に収まるのならば、理念型としてこの二つを提示することには大きな問題もなかろう。

 次に行うべきは、以上のような、国家行動の規則性を説明する方法について考察することであろうと思われる。そしてこれは、国際政治で歴史的によく論じられてきた、「国家理性」に基づく、レアルポリティークに近いアプローチと言える。そしてこれによって導かれるのが、「勢力均衡」である。これは国際政治学に独特の理論と言える。

 勢力均衡には多くの誤解が混じっている。正しく言い表すためには、まずはなにより、国家についての仮定から始めなければならないだろう。国家とは、「最小限自己保存を、最大限世界支配を、追求する統一的アクター」であり、利用できる手段とは、「対内的努力」と「対外的努力」がこれに当たる(p.155)。それから国際政治は自助システムであり、自らを助けられないものは繁栄できないため、国家は危険に身を晒さざるを得ず、その恐怖から勢力均衡を目指すようになる。そしてうまくやったものがいれば、そのやり方を他のものは模倣し、でなければ落伍していくという形でシステムは機能する。

 勢力均衡理論への一つ目の誤解は、その理論の仮定の誤りについて指摘するスタンスが原因である。理論の仮定は仮定であり、真実でも虚偽でもありえない。二つ目の誤解は、それが結果を説明しようとするものであり、そのユニットの意図を説明するわけではないという点を見逃していることが原因である。この議論は、ユニットにどういう意図があっても、均衡が形成される傾向があるというに過ぎない。そして勢力均衡は、秩序がアナーキーであり、生存を望むユニットが分布しているという二点さえあれば、必要条件が充たされるのである。また、第三の批判として、勢力均衡理論が国家の特定の政策を説明しないという議論がある。この議論は、国内政治と国際政治の区別を明確にしないことから起こる、国際政治と外交政策の混同であり、この理論が何を扱い、何を扱わないのかという点を見逃している。

 ここで行われるのは、理論の検証についての前提に当たる議論である。
 理論に反証の要因を重要視するポッパーに従う議論と、本著で扱う理論のアプローチは異なる。期待される行動と結果が、理論が設定する条件がそろっているところで繰り返し見られるかどうか、が問われることがむしろ重要である。
 そして構造理論は、「実質は異なるが構造が似た領域において類似した行動がみられた場合」、また「実質は似ているが構造が異なる領域において違った行動が観察される場合」において非常に有効である。
 とは言え、検証のためのテストは、実験のできない国際政治においては非常に難しい。なにより、勢力均衡理論は決定的な予測ではない。つまり行動全く同一になるとは限らない。それから、国内条件によっても影響を受ける。
 求められるのは、検証のためのテストをよりむずかしいものにする、つまり反対方向に働く強い力があっても理論の期待どおりの結果が出ればよい。勢力均衡理論においては、競争的な環境の下であるため、バンドワゴニング(パワーの最大化)ではなくバランシング(生存)を取る。あるいはシステムの社会化もしくは模倣というのも行われる。こういった命題の検証が必要になるだろう。


 極端に、一節の4以降を短くまとめ過ぎた。興味のなさが原因だろう。
 どうにも、構造的制約の回避に関して、小さな決定の累積では不可能だという議論はしっくり来ない。それは確かに、意図して起こるものではないかもしれないが、意図せずに、すなわち相互作用の連続によっていつの間にか、危機以外においても、大きな変化がもたらされることはないのか、と思ってしまう。
 それから理論の前提の誤りを指摘することの部分は、どうにも詭弁に思えて仕方がない。簡潔な説明は求められるが、複雑な条件付けを行うことは、その説明が多くなることが前提ではあるがもっと重要なことに思えるからだ。確かに理論の前提の誤りの指摘は不毛である。だったらより現実に適合した前提を基にした、拡張的な理論を作ればよいのであろう。我々に求められているのはそこであり、ウォルツが出てきて以降行われてきていることでもある。

ウォルツ『国際政治の理論』(3)

さて、第5章である。正直、個人的に最も注目した部分が、456章なので、ここは丁寧にやろうと思っている。つまり6章も長めになる。そして789章のあたりは、さらっと流してしまおうかと考えている。具体的な話が多いしね。それでは始める。

第5章 政治構造

 本章は第4章で語られた「構造」について、それはつまり何であって、どういった性質を有しているのかについて論じている。徐々に政治学的な議論へと繋がっていっている。
 そもそもシステムとは、「①構造と②相互作用するユニットから成り立っている」(p.105)。それから構造とは、「システムを1つの全体として考えることを可能にするものである」。正直なんのこっちゃと思わなくもないが、ともかく、これが彼の付した定義であり、構造とは個別のものとか個別のものの相互作用とは関係ないものとして、全体として機能する何かとして捉えるために、ユニットの特性とか行動、相互作用は無視あるいは抽象化される。
 ユニット同士は関係し合う。これは①ユニット間に相互作用があることもそうであるが、もうひとつ、②ユニット同士が互いに対して持つ位置関係についても考慮する必要がある(ネイデル:1957)。それゆえ、相互作用を排除した後に残る構造とは、「位置関係」だけを捉えた図のことと言えるのである。かように考えた際に得られる命題が三つあり、①性格や行動、相互作用が変化しても構造は持続する ②部分の配置が似ている限り、構造の定義は異なる領域にも当てはまる ③多少の修正で他の領域に応用可能、ということになる。また言い換えると、構造の変化とは、配置の変化とも言えよう。

 政治領域は大きく二つに分けられて、国内領域と国外領域のものがある。そこで次に、二つの領域について、三つのシステムの構造定義から分析する。三つの定義とは即ち、1.システムの秩序原理 2.公式に差別化されたユニットの機能の特定化 3.ユニット間の能力の分布である(pp.109-110)。
 国内政治については説明を省く。ここでは上位下位の関係性があり、制度としてどのように機能が差別化されているか、また能力の関係性についてどうあるのかについてウォルツが分析を施している。
 ともあれ、国際政治についてである。まず1の秩序原理であるが、これはアナーキーだろう。構造があるのにアナーキーとは一体どういうことか、少し不思議にも思えるが、ここで彼は、市場や交通システムといった例を用いて、利己的なアクターが「共=行動」を行って、結果としてシステムを、構造を形成することの可能性について論ずる。4章を思い出せば、いかに社会化と淘汰という仕組みを用いていかに国際政治構造が可能なのかが理解しうるかと思われる(個人的には若干眉つばだが)。
 次に2のユニットの特徴である。ここも若干眉つばな気がするが、彼が主張するには、国家とは直面する課題は同じで、目標も同じであるために、国家の有する機能は同じである。ユニットは類似であるという主張を為す。
 最後に3の能力分布のところであるが、ここは1や2とも関係するところで、遂行する課題が同じであれば、後は国家とは能力の大小のみが重要な存在であるというのがここでの主張である。能力分布とは、ユニット間の能力の比較の問題で、システム全体の問題と言える。これは、相互作用から定義される問題である、国家のグループ分けの問題とは関係なく不定であり、その意味で、二大国に挑戦できる第三国が存在しない2極システムと、同盟によって2つの同盟に分かれた国際政治システムでは構造は異なる。国家の性質やイデオロギーが構造問題とは無関係であることもまた、当然と言えよう。

 国家が、国家どうしの相互作用と、外部の国家によって影響を受けているというのが、我々のよく想定するところである。しかしながらウォルツは、これに加えて、国家の相互作用がシステムを形成して制約を加えることを示した。中でも彼の最も注目した影響が、システム内における位置関係を示す、能力配分であった。



 長くなったので、ここも一章で区切っておこうと思う。正直のところ、半分くらいよく解らない。ロジックは綺麗に通っているが、いまいちピンとは来ない。ユニットは同じ目的を有するから、機能も同じであるという議論は、単なる機能主義に陥ってしまっているようである。実際は、経路依存による部分も多いだろうし、だいたい国家がどれだけ合理的に出来ていると言えるのか。文化主義者というほどではないにせよ、やはりこれは理念型に過ぎない。

ウォルツ『国際政治の理論』(2)

  前回のエントリは、ウォルツTIPの1章から3章までを扱った。主に、理論とは、とか、還元主義批判といった形而上学的(といっていいのかは解らないが)な問題についての記述を要約したのだが、以下にまとめた章は、まだまだ抽象的ながら、ではウォルツはどのようにしてかような問題を考察するのか、という疑問に答える端緒となる部分である。それでは要約を始める。

第4章 還元主義的理論と体系的理論

 ここでは、2章と3章を引き継いで、還元主義を批判して、体系的な説明をいかにして獲得できるのか、主に国際政治学をイメージしつつ、普遍的な議論を展開している。
 彼の非難する還元主義とは、繰り返しになるが、部分の行動を説明する議論があれば、それを総和してしまえば国際政治が全て語れるというような議論である。しかしながら、それでは、国家の形態や目的が時代を通じて変化していっているのに、どうして国際政治はこの長い間、同一的な様相を呈しているのだろうか。彼はそこにシステムの影響が想定できる余地を見出したのであり、特に歴史を通じたアナーキーの同一がその重要なファクターと考えた。
 何度も言い換えるが、アクターの持つ多様性は結果の多様性とは合致しないのであり、そこにシステムの議論は入りこみうる。つまり、システムの構造がアクターの行動を制約したり促進したりする。構造的説明は、静的な概念、あるいは中身のない議論として退けられることが多い。特に前者については、確かに長い間構造は変化しないことが多いが、それでも構造はアクターの行動に常に影響を及ぼし、それは相互作用の結果に変化を与えるために、長期的には変化しうるものといえるという点で誤りである。また構造的な変化自体もあり得るもので、急激な革命などが多極→二極の変化をもたらすことは当然に可能性が残っているのは間違いない。(pp.91-92)
 ここで理解すべきは、とは言え、構造がアクターの行動を決定するわけではないという点であろう。すなわち、システムレベルでもユニットレベルでも力は作用しているのであり、あくまでシステムの影響とは、「ある領域の組織化のあり方が、そのなかで相互作用するユニットに対し、いかに制約的もしくは促進的力として働くか」(p.94)という観点から見られるべきものである。

 次に考えるべきは、「構造」についてである。構造とは何か、あるいは何をするものか。ここでウォルツは、構造に関して二つの類型を行う。一つ目は補正装置としての構造で、さまざまな入力に対して、結果の同一性をもたらすような、装置である。二つ目は、淘汰装置としての構造で、直接エージェントに影響を及ぼすではないにせよ、制約条件をセットするものであり、彼は特に後者の装置としての構造に着目をする。(p.97)

 構造はどのように制約条件をセットするのか。ここでは二つの方法が述べられており、一つ目は「アクターの社会化」である。基本的に国際関係は、相互作用によって成り立っており、アクターAはアクターBに、アクターBはアクターAに相互に影響を与えあって存在しており、彼らは群集化=社会化している。これは主に、行動規範の構築に対して、模倣という手段でもってなされるものであり、アクターは内面から変化していくのである。二つ目は「アクター間の競争」である。これは即ち、結果による淘汰であり、よくあるダーウィニズムの一種と言えるだろう。一定の行動を取らないと、結果として国家は社会的に淘汰され、存在しなくなる。そして出来上がったのは、一定の特徴を共有したアクターのみが残る国際関係、というわけである。構造とはこれらの二つに影響を与えるものであり、結果としてアクターに対して制約を与えるのである。



 一先ず第四章はここまで。長くなったのでエントリーは区切る。個人的にはこの章は面白いところで、ウォルツの描くシステム及び構造が、一般的に語られるネオリアリズム論とは若干異なる姿を見せているように思われる。
 例えば構造は、絶対的な影響力を持つものではない。あくまで制約条件として機能するに過ぎない。制約の方法に関しても、社会化と淘汰という、特に前者などは今ではコンストラクティヴィズムが大いに主張する議論であり、ここに私が3つ前のエントリーに書いた、コンストの議論のリアリズムとの差異化不十分の原因があると言えよう。
 いくつか思うところとしては、例えば、制約の方法として、淘汰をあげているが、これはちょっとどうだろうとは思う。淘汰があるからといって生物の世界は同一化などしていないし、むしろ不均衡性こそが生物の世界の存続理由と言う議論すらあるわけで、同一性をもたらすほどの大きな影響はないのではないかという点。他には、もし似たようなアクターが残ったとして、どうしてその特徴はずっと持たれ続けるのか、生物的特徴とは異なり、国家の特徴は自分で選択可能なわけで、一度ある特徴が淘汰されたからといって、それは長続きするものだろうかという点。などなど。制度の収斂の議論(Convergenceやemulation)の議論は、他にも扱っている論者は多数いるので、このあたりもフォローすべきかどうか・・・。

 5章に続く

ウォルツ『国際政治の理論』(1)

以下、勁草書房の『国際政治の理論』の要約+感想。

1章 法則と理論(pp.1-22)

 ここでは主に、法則との差異を見出すことで、理論とは何かという話を、科学哲学の議論を踏まえて描いている。
 理論とは、単なる相関関係や、単なる因果関係の存在の記述ではなく、その法則を説明するものである。それゆえその性質上、理論とは仮説に過ぎず、帰納主義的アプローチではその確かさは主張できない。そのために検証を要する。あまり興味ないので、ここは短めに。

2章 還元主義的理論(pp.23-48)

 ここも大して興味がないので、さらっと流す。
 理論の説明とは、基本的に<還元主義/体系的>の二つに分類されるが、ここでは前者が否定される。即ち本章は、還元主義的な説明である、部分の属性と部分の相互作用を観察+合計することで全体が理解される、という議論について非難を加えるのが目的である。
 特にここでは、帝国主義論の説明における失敗を例に非難をしており、簡単にまとめると、ホブソンやシュンペーターの、Aという部分(原因)によって、結果として必然的にBという結果が導かれるというような理屈について、他の原因であるとか、AがB以外の結果を導いた例であるとかについて考察が加えられていないことを誤りとしている。そして、「自己確証的理論」(それしか説明できない議論)や「行動なき構造」(ガルトゥング的、理由が説明されない議論)、「過度の説明」(定義の恣意的な拡大)について否定をする。

3章 体系的なアプローチと理論(pp.49-78)

 ここは、国際政治学において、体系的なアプローチをした理論について紹介をし、そして徹底的に批判をする章である。著者はなんつう怖いもの無しか。
 例えばウォーラーステイン世界システム論なんかがあるが、あれは非現実的な理論であり、そもそもとしてかような単純化に対して、国際政治学における理論化の不可能を説く論者もいる。しかし混乱要因の少ない中での理論の可能性はありえよう。
 やり方は二つあり、一つ目は分析的手法として、変数の組み合わせ間の関係に還元する方法である。しかしこれは、システムレベルを無視しているのであり、エージェントが変わったのに何も変化が起こらなかったという場合において不適切になってしまう。それに対して、相互作用するユニットが構造を作り、その構造がユニットに影響を及ぼすというシステム的な影響の方に目を向けるのが二つ目の方法である。注意すべきは因果関係が双方向であるところか。

 次にウォルツは、国際システムについてのこれまで議論を振り返るのだが、まずローズクランスであるが、彼の議論は環境的制約とアクターによる混乱、そして調整装置が機能して帰結が導かれるというものであるが、これは単なる分析枠組みであり、国家に何の影響も与えないシステムを記述したに過ぎない。そして何よりも還元主義的である。
 ホフマンは幾分ましそうであるが、システムとユニットを混同し、何がシステムであるか判然としない。また、インサイド・アウト=アクターがシステムを規定する説明しか採用しない時点で先入観に満ちている。
 カプランの議論は最も紙幅を費やされており、おそらく最も重要である。彼は、6つの行動システムと、5つの変数を設定して、議論を展開している。しかし、システムや構造の定義がはっきりせず、どれがシステムでどれがシステムではないのかが規定されない(環境と混同している)ため、行動→システムへの影響は言えても、システム→行動は論ぜられない。また、動機→結果の区別も判然としない。これでは一般システム理論に適合的か否かすら解らない。そしてルール自体が相互矛盾している。最後に、フィードバックの議論を援用しているが、ウィーナー的が言うような、管理者と管理する道具が不在である以上、国際関係論においてこの議論を持ち出すのは不可能である。




 ひとまず三章までをまとめた。
 いまいちまとまりが悪いが、簡単に要約すると、彼は国際関係論における、システミックな影響について論じたいのであり、そのためにまず、多く否定される国際関係の理論化を可能にするために理論自体の定義を行い、次に、還元主義的説明を否定することで、体系的説明<システム的>を擁護した。そして、具体的にシステム的な議論の先行研究のレビューと批判を行ったところで、4章以降、彼自身の理論化が始まる、といった寸法である。
 このなかで一番思うところは、三章の最後の、フィードバックを援用出来ないという批判についてであるが、これはまた後ほど。
 次は4章5章、余裕があれば6章までをまとめたいと思う