リアリズムとリベラリズムという分け方について 続続 

 ずっと書けないでいた。漸く三週間ぶりの更新となるわけだが、理由は有るようでもあり、無いようでもあり、どうやって書いたらいいかとか、自分の書いていることにどんどん自信がなくなっていったとか、言いようはあるのだが、一番は怠惰であった。あまりに怠惰が重なり、頭がいまいちうまく働いていないほどである。いい加減腹を括ろうと、軽く書いておこうと思う。

 とは言え、自信は未だに持てないでいる。理由は、僕がどう言おうと、国際関係的リベラリズムとは、ロック的であるとか、カント主義と呼ぶのが一般的であるからである。そしてそれは、一定程度正しいとも思う。なぜならば、国際関係論者は別に、その素描に関して、国際社会とはロックが描いたものと等しいとは言わず、ロック的であると表現しているようであり、故にそれは厳密には違うのだなどと何も青筋立てて怒る必要などどこにもないからである。
 一方で、少なくとも、モーゲンソーが非難したかったリベラリズムという相手は、ロック的な考えを持つ人々では無かったようにも感じる。このあたりについては、ネットでモーゲンソー研究の論文はいくつか拾えるので、参照のほどを願いたいが、自由な経済活動に基づく平和と、国際連盟→世界政府への拡張という二点の賛美について、これをロック的であると断ずるのは、少しばか早計であろう。ロックの議論とは、誰もが理性に鑑みた際には、他人の生命、健康、自由あるいは所有物を傷つけるべきではないという自然法を前提においており、その上で、これらを守るべきものとしての政治社会、即ち法と裁定者、そして権力を必要とするのであり、この議論の順序は、最大多数の最大幸福的な議論とは明らかに異なっている。外形を見れば国際関係的リベラリズムと似たようなものであるが、だからといって、そのような表現をしてしまうのは粗雑に過ぎると思い、ここでは前のエントリのようにした次第である。

 とまあ、前回から長々しく続いて書いたが、本当にシンプルにまとめるなら、真理、あるいはイデオロギーに基づいて、利益という観点から、国際関係は平和に出来る、と考えていたリベラリストという人たちに対して、ことはそう単純ではない、人間である以上権力的な政治がその本源であると強調したのが、リアリスト、もしくは現実主義者の興りとすることが出来る。

 次回こそ、その後の展開と、あと僕が思うことをつらつら書いて終わりにしたいですね。