今度はコンストラクティヴィズム批判

 もはや、あらゆる概念を切って捨てている感も否めないが、先日少し思うところがあったので、それについて記す。
 きっかけは某米国の国際政治学者のレクチャーを受けたことにある。彼は、ある領土問題について分析をするために、リアリズム、リベラリズムで説明をして、それでも上手く説明のできない現状=歴史問題やナショナリズムの勃興があるから、そこではコンストラクティヴィズムが有用である、三つの理論を折衷的に使えば良いのだ、という議論を、ドヤ顔でして、そして帰って行った。それを聞いて、このオッサンは駄目だと思いつつ、それでは生産的ではないので、自分ならどう反論すればいいのか考えた。結果として、コンストラクティヴィズム批判へと至った。

 それでは、いったい何が問題だったのか。一言で書くなら、それをコンストラクティヴィズム的であるとする必要性が解らないことにある。つまり、それぞれの紛争について、それぞれの歴史的な背景やら国民感情やらが存在するというのならば、もはやそれは、理論的なアプローチなど必要ではなく、地域研究として行えばもっと詳しくまとめられる問題となる。一応理論的なアプローチとしての体裁を留めているのは、リアリズムとリベラリズム的なアプローチからも論を進めているからに過ぎない。言い換えれば、リアリズムとリベラリズムで説明がうまくいかないところを、コンストラクティヴィズムという何でも有り理論を嵌め込むことで、さも理論的説明が完了したかのように見せているのである。
 では、もし順番を逆にして、コンストラクティヴィズムを現実への適用の最初に持ってきたらどうなるか。私は、おそらくそれでほとんど事は足りるのではないかとすら疑っている。コンストラクティヴィズムとは、日本語に訳せば構成主義である。社会学から輸入された考え方で、一般的には、アイデンティティや規範などに着目する理論だと言われる。しかし構成という言葉は、そう軽くはない。もっと遡るならおそらく、フッサールなどに辿り着くのだろうが、そこまで考えを及ぼすならば、構成性とは恐ろしく射程の広い言葉として捉えることができよう。コンストラクティヴィズムの代表的論客であるウェントは、その議論の根幹にシンボリック作用論を据えることで、国家のアイデンティティそのものを社会構成的なものと主張したし、またそれに基づき、他のものも同様に社会構成的となる。そして、意識は「すべての世界的な超越物を自己のうちに内蔵し、それらを自己のなかで「構成する」」(フッサール)以上、あらゆるものは社会構成的であると言えるのである。
 以上を言い換えると、あらゆる領土紛争は、社会構成的なものである。こうしてしまうと元も子もない。しかし、現状のように、コンストラクティヴィズムを社会構成的なもの全てに適用してしまうならば、それで十分と言えるのである。例えば、AとBがC島についてその帰属を争っているとき、それぞれの国家は、自国のアイデンティティの範囲について問題にしており、そのことを重要な事件として認識しているために、ある島の帰属問題とは、社会構成的であると言える。
 では、もっとリアリズム的な問題ならどうか。例えば大国Aに対して、ある領土を巡って、小国Bと小国Cがバランシングをして争っていた場合、これはパワーの問題、リアリズム的な問題として表現される。しかしこれですら社会構成性の問題とも言えるのである。すなわち、ある領土の帰属の問題は上述の通りアイデンティティの問題と関わるし、ネオリアリズム的に大国Aに対してバランシングをしても、A国をBとCがパワーを測定して、生存の観点から脅威と認識しなければならない。より純粋観念的な、客観的だと思われるパワーバランスの問題ですら、測定と評価の段階では、社会構成的と言わざるを得ない。ここまで考えたとき、コンストラクティヴィズムとは、全てであると言ってのけることすら可能かもしれない。
 もしも、コンストラクティヴィズムが、リアリズムも、リベラリズムも内包できる概念だとしたら、リアリズム、リベラリズムに説明出来ない分野のみコンストラクティヴィズムで説明しようという試みは、誤りと言わざるを得ない。そうした折衷主義は、同じ位相で対立する観念においてのみ成立するだろうから。それゆえ、理論として活用するためには、コンストラクティヴィズムは、どこまでを照射できるのか、厳密に見極めて、限定して、分類される必要に迫られている。