International Security, No.39-1 サマリー翻訳

勝手に翻訳の要約シリーズ。


39-1のサマリー要約。
全体的に、1914年の第一次世界大戦(WW1)特集になっている。
日本でも、『外交』や『アステイオン』等でWW1特集をやっていたが、僕はあまり、単一の歴史のアナロジーというのは好きではない。
ちゃんと過去を詳細に理解しないままアナロジーを展開すると、当然間違う。
但し批判ばかりしていても、非生産的に過ぎるか。悩ましいね。



今日の東アジアに対する、1914年の教訓: 森を見て木を見ず
ジャ・イアン・チョン シンガポール大/トッド・H・ホール オックスフォード大

「現代の東アジアを理解するのにWWⅠの持つ重要性は、何も、アングロ対ジャーマンの敵対関係と現代の米中関係の間のアナロジー(類推)ではなく、不安定性と国家間紛争の根源に注意することを必要としている時期という、より具体的な教訓による。

正確には、これらの教訓は複雑な安全保障の編成や、ナショナリズムの二極性、繰り返される危機において現れる危険なダイナミクス(運動)によって挑戦されていることに関係している。」


(上記に書いた、単純な比較論文)

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国内の連帯、国際化、そして戦争;昔と今
エテル・ソリジェン カリフォルニア大

 「(本論の)2つの中心的な主張は、基礎分析のブロックに頼っている。1つ目は、想定上の修正主義的挑戦者による、国内の連帯の編成の、─ドイツと中国の─、見かけ上の類似性にも関わらず、重要な違いが、単純なアナロジーを拒否する。第2に、地域の連帯の集団とグローバル政治経済、─つまり国内と対外的な連帯─は、2つの時期において異なっている。今日、連帯が機能している"世界時間"は、明らかに上と同じく違っている。このように、昔と今の間の非歴史的アナロジーは、不十分なだけでなく、アクターの国際行動を誤らせ、危険な慣習をもたらしうる。」


(読みづらい翻訳だが、つまり、「昔と今=WW1前のドイツと今の中国、を単純比較するな。国内の連帯も、対内政策と対外政策の関係性も、全く違う。昔と今の間のギャップが埋まることがないことに気付けるという意味では、ちゃんと歴史を理解することは無駄じゃないが」、といった感じか?上の論文への反論になっているようにも見える)

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後よりも、今の方が良い:みんなが戦争を好んだ年であった1914年のパラドックス
ジャック・スナイダー コロンビア大


「ヨーロッパが1914年に、戦争に臨んだの一つの理由は、全ての大陸の大国が、戦うことが望ましいと判断したからであり、後ろに開戦を延期することに対し、より悲観的であったからであった。」

「フィアロンの3つのメカニズム─私的情報、コミットメント問題、賭けの個人性─は、パラドックス、つまり1914年を、戦争を望んだ年とする見方について説明できない。彼の分析において非中心的な2つのメカニズムは、多面的なパワー分析において合理性を制約し、高圧的な外交を通じてパワーシフトを和らげようとする試みが、どのようにヨーロッパが現在の戦争と後年の戦争の間で選択の罠に嵌ったのか、を説明する。」


「これらのメカニズムは、1914年にヨーロッパの指導者たちが直面する選択肢を強固に構築する、軍事主義とナショナリズムの文化に根差した、背後にある戦略的な仮定によって動きをセットされた。フィアロンの理論は国家はすべての関連する情報に対して等しく注意を払うものと仮定する一方で、1914年においては、いずれもの国家は、国内的な関心と同盟の心配から、均衡の取れないレベルでの自己陶酔を、戦略的な計算から構築していたのである。」



(※フィアロンJames Fearonと言えば、1990年代頃に、合意的選択論の立場から戦争原因論の論文を書いたので有名。合理的に考えれば、戦争なんてコストのかかることはやらないだろう、という常識的な議論に対し、いやいや、情報は限定的であり、完全情報下で無いのだから、合理的アクターでも戦争はありうるよ、と言ってた人。標準的な政治学では、アンソニー・ダウンズなんかの議論が代表的。IRの世界では、どの程度戦争を相手がやる気かなんて分からない訳だし、といった話だったかと。読んだのは随分昔なので記憶が曖昧だが。
 ここでのスナイダーの議論は、WW1は皆が望んだものであり、この議論は通用しない。むしろフィアロンがあまり注目しなかった、別の議論、合理性の制限や高圧的な外交が、WW1では軍事主義やナショナリズムに基づく国内や同盟への関心によって開戦へと至ったのだとしている。恐らく。)

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デッド・ロングか? 戦死、軍事薬、戦争の減少についての過剰なレポート
タニーシャ・M・ファザル ノートルダム


「戦争は減少傾向にあるのか? 最近の研究は、そうだ、とする。この議論の実証的な前提は、ここ数世紀における戦死者の減少である。」

「紛争地帯における医療ケアの劇的なまでの改善─予防的薬品や軍事薬、搬送(evacuation、よく分からない)、保護装置(protective equipment)─は、以前に比べて今日、戦闘での傷から生き残る可能性を高めた。かように、戦争が生き死にに係ることが少なくなったという事実は、必ずしも、頻度が少なくなったことを意味しない。」

「戦争の減少は、学者たちが主張していたほどは劇的なものではなかった。これらの発見は、現存の戦争や軍事紛争に係るデータのセットの基礎に疑問符を付す。また、それらは、戦傷に焦点を当てる政策の必要性が増していることを強調するのである。」



(戦争は減り、戦死者も減ってるが、戦傷者は十分に多い、という話。ま、いい時代になったのは確かか。)

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アルカイダを非正統化する:死を愛する男を所有する武器を打ち倒すこと
ジェリー・マーク・ロング ベイラー大
アレックス・S・ウィルナー トロント


テロリズムを抑止することは、もはや物珍しいアイデアではないが、現在の理論的調査に欠けているのは、どのように非正統化が戦闘員の行動を操作し、形成するかという議論である。」

アルカイダの場合は、注意深く、強固なメタ会話を作り上げ、徴用のためのツールとして驚異的なまでに成功している。それは、人々の弁明や聖典解釈として、またメディア・ジハードと呼ばれる戦争の武器として、支持者のアイデンティティ形成において使われる。」

「非正統化は、アメリカとその友好国、同盟国に、テロリズムを支援し、参加するためのイデオロギー的なモチベーションを攻撃し、品位を下げるという手段によって、アルカイダ自身の会話を利用させたのである。」



(最近読んでいるエリノア・スローンの『現代軍事戦略入門』にある、ゲリラ戦における戦略も同様であるが、ゲリラの人間をどうやって、「こちら側」に引っ張り込むか、あるいは「あちら側」にやらないようにするか、が重要だ。これは、非国家紛争において、顕著な傾向である。)

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エスノ・フェデラリズム:制度編成の最悪な形なのか・・・?
リアム・アンダーソン ライト州立大


「ある人は、エスノ・フェデラリズム(連邦中心主義)は、潜在的に領土的に集中した民族グループの独立要求と、共通の国家による領土の統合維持の欲求を折衷するのに有用であるとしている一方で、反対派は、脱退、および究極的には国家の崩壊へのショートカットでしかないとする。」

「1945年以降ののエスノ・フェデラリズムの実証に基づくと、成功、失敗ともにあったが、失敗よりも成功の方がより多かった。」

エスノ・フェデラリズムが上手くいかなかった場所は、その他の代替的な制度も上手くいっていない。政策決定者と実務家が、民族問題に対して連邦的な解決策を主張するのは理解しうるし、これらの発見の観点から擁護しうるものだと言える。」



(色んな民族、エスニシティを一つにまとめ上げることの問題点はよく展開されるものの、では代替案が本当に優れているのか、というと、結局、エスノ・フェデラリズムほど優れた議論では無い、という話。国家中心の国際社会は融解しつつあるのだー論者もよくいるが、結局、既存の主権国家体制以上に優れた国際システムを想像しえていない、という話に近い。)

今日は、International Security, No.38-4のサマリー翻訳。

テロリストについて、が2本。核の拡散問題について、が2本。中国の擡頭が1本。
モントゴメリーだけ知ってたので、これ読もうかな、とも思ったが、前回も似たようなものだし、やめ。
39-1も購入済みなので、次はそちらのサマリー翻訳する。

リーダーを攻撃すること、的を外すこと:どうしてテロリストグループは殺害攻撃に対して生き延びるのか?
ジェナ・ジョーダン ジョージア技術大

 「リーダーを標的にすることは、テロリズムへの対抗(カウンターテロリズム)政策のカギとなる特徴である。」

「しかし、リーダーシップ殺害はいつも成功する訳ではなく、また現存する研究はこの変わりやすさを説明できない。」

「組織的弾力性の理論は、どうして殺害が、あるテロリスト低迷をもたらす一方で、あるテロリストは生存するのか、について説明する。組織的弾力性は、2つの変数に依る。官僚化と共同支援である。」

「歴史が長く、大きい組織は、官僚的な特徴を育て上げ、明確で継続するプロセスを助成し、リーダーシップへの攻撃に耐えられるよう、彼ら自身の安定性や能力を高めるのである。」
「共同支援は、テロリストグループが機能し、生存するためのリソース(資源)を供与するのに重要な役割を果たす。宗教的、分離主義グループは概して、彼らの活動する共同体から高い水準の支援、および重要なリソースへのアクセスを享受している。」

「この理論モデルをアルカイダのケースに適用することで、オサマ・ビン・ラディンの死と、それに続く他のアルカイダ幹部を標的にすることが、明白な組織的低迷をもたらさないだろうことを明らかにする。」


ウェーバーの三類型が参考になる議論かと思う。)

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不拡散の王様は裸だ;ガス拡散法、供給サイドの管理、核不拡散の未来
R・スコット・ケンプ MIT

 「技術は長い間、核兵器の拡散を制限するのに、中心的な役割を果たしてきた。しかしながら、核技術の発展や、増加する情報へのアクセス、デザインと製造のツールのシステマティックな改良は、時には、拡散への挑戦を用意にもしているはずである。ついには、途上国でさえも技術的に十分な能力を保有できるようになった。」

「基礎的な濃縮ウランのガス拡散法は、ほぼすべての国にとって、外国の手助けや輸出管理物質へのアクセスなしに可能になった。」
「もし、秘密の、また兵器の生産に固有の条件が現れたならば、技術にのみ注目している不拡散の制度は、不十分になるだろう。核の安全保障政策の根本に近い変動が現れてきているのに、変化した技術の風景は、今や、モチベーションに注目することなく、組織に立ち戻ることを余儀なくされているのだろう。」


(技術の進歩により、核兵器の拡散は容易になった。もはや制度で縛ることは難しいため、モチベーションの観点から拡散を抑制しましょう、という話。結局、技術の拡散を防ぐのは、人の移動が可能である以上、難しいのだろう。薬師寺泰三の『テクノへゲモニー』はそういう議論だった。)

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ニューデリーの長い核の旅:どのように秘密および組織の障害はインドの兵器化を遅らせたのか?
ガウラヴ・カンパニ:ランド研究所ほか

 「1980年代の終わりから1990年代の初めにかけて、多くの学者やシンクタンクのアナリスト、ジャーナリスト、政府の官僚はインドを事実上の核兵器国として見做すようになった。」
「米国の政策決定者の間のコンセンサスとしては、技術的、もしくは組織的なハードルよりも、規範がインドを、潜在的な核の能力を軍事作戦上のものにしないようにしている、というものであった。」

「しかしながら、インドは1994-1995年まで、信頼があり、安全性がある、核兵器運搬のための技術的な方法に欠けていた、という新証拠が発見された。」

「この不足は、情報の共有や関係するアクター同士の協調を防ぐ秘密のレジームへ導かれる。この秘密は、特に米国による、核の逆行という国際的な圧力を恐れたインドの政策決定者の間での、リスク回避によって取り進められたのである。」



(上の論文への応答のようになっていて、おもしろい。インドは、技術的に核兵器保有できたのに(恐らく平和利用は認められていた時代かと思う)、実際にはその能力は無かった。国際的なプレッシャーに基づく秘密保持が、インドへの情報提供を防いだ、という話。やりようによっては、うまくいくものだと感心した。)


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西太平洋における争われる卓越: 中国の擡頭と米国のパワー投射
エヴァン・ブラデン・モントゴメリー CSBA

 「対立にも関わらず、深い関与とオフショア・バランシングの提案者は、米国の軍事力に係る楽観的な、しかし非現実的な分析を共有している。特に、米国の大戦略についての議論をする際に、両者とも中国の軍事近代化の潜在的な結果を過小評価している。」

「中国のA2AD戦略と、伝統的な精密攻撃能力は、すでに米国が東アジアの地域紛争を防ぎ、長期的な同盟国を守り、共有地の自由を維持する能力を侵食している。」「脅威が現れたときに、」「単極時代では、順応してしまうよりも、パワー投射に軍事力を採用する必要が出てくるだろう。」

「この採用は、空の上や、海底に拒絶圏の中でも生存できるようなプラットホームであったり、攻撃に耐えられるような前線基地、破壊活動に強い衛星やサイバー空間のネットワークを開発することを含んでいる。」



(中国の近代化は立派だよ、パワーの投射が何かしらの形で必要になるだろう、という話。立脚点を確保することで、中国に対抗しよう、という。何とも。ありがち。)

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助けが欲しいか? 国内の反乱における外国兵士の混合された記録
クリスティン・ベック ロンドン大

 「暴力的な紛争をめぐる、主要な政策的関心事のひとつは、この紛争が、越境する反乱軍、つまり外国兵士を引き寄せ、飼育してしまうことにあるだろう。」

「この増殖する心配にも関わらず、比較的に、供する反乱軍が国内紛争に及ぼす影響はあまり知られていない。」

「現存する研究は、そのような”外部の者たち”が、反対運動に対して、兵士や武器、ノウハウ、金融リソースに対するアクセスをもたらすことで、国内の反対運動を強化するものと仮定している。」

「しかし、外国の兵士は、障害物と目標とする新たなアイデアや、どのように実行すべきなのかについて紹介することで、国内の反乱軍を弱体化もさせるのである。」「この新しい目標や戦術の紹介は、反対運動の断裂を作り出すだけでなく、地域リーダーが生きるのに必要な、人々の支援を惹きつけ、維持することを難しくする。国内反抗軍のリーダーの、越境軍の新しいアイデアを地域の状況に適用する意思や能力は、外国兵士がその地域独自の反乱を強化できるかどうか、またどうやって強化するか、を決定することが鍵となるのである。」



(反乱、紛争、における外人傭兵部隊は有用だが、一方で運動は自力でやらないと、結局まとまりが無くなるよ、という話。そうなんだけど、でもリソースを確保できる外人部隊は、彼らにとっちゃ命綱でもある訳で、そう簡単にはいかないよな)<<・・

「優越か、世界秩序か? アメリカと中国の擡頭」 書評エッセイ ユエン・フーン・コーン(Yuen Foong Kohng)

Yuen Foong Khong, "Primacy or World Order? The United States and China’s Rise— A Review Essay" International Security Volume 38, Issue 3 (Winter 2013/ 14), pp. 153-175.


訳語の不統一は気にしないでもらいたい。ただの怠惰。
米中関係についての書評論文の、以下、要約。



パワーの配分の存在と発展
 アジアにおけるバランス・オブ・パワーとは何か? これは、議論が紛糾しえている。

オバマは中国の擡頭を受けて「ピボット」した。」
フリードバーグは曖昧な書きぶりをしている。米国がアジアのBOP(勢力均衡)を維持することを希望しているように書く一方で、アジアにおける米国の優越的地位を認めているのである。
 ヤンはアジアのパワー均衡が米国優位の形で残っていることを認めている。これは、米国のメインストリームでもある。(スティーブン・ブルックス、ジョン・ミアシャイマージョセフ・ナイ、ウィリアム・ウォルフォース)
 フリードバーグとホワイトは、メインストリームの議論とどう違うのか?彼らは、新規性のある力、を強調し、特にsea denial(海洋拒否、でいいのだろうか?)によって中国の脅威が増していることを通底として説明している。
また彼らは、こうした「アクセス拒否anti-access」に対する米国の対応として、「エア・シー・バトルAir-Sea Battle」と呼ばれる、空軍と海軍を統合させて「アクセス拒否」や「領域拒否area-denial」を混乱・破壊しようとする試みについて議論を展開する。ホワイトは、広域の太平洋における中国との衝突に対し懐疑的である。


つまり、アジアにおけるパワーバランスの問題は、勢力均衡状態であるのか、それとも米国優位であるのか、から議論があるものだと。そして、単純な軍事力の多寡の問題ではなく、中国がA2AD能力を鍛えていることに危惧が持たれているのだ、と。

中国の優越と目標
 三者とも、中国の経済的成長を果たし、軍事敵に米国の覇権に挑戦する存在であることを認めている。
 いったい、中国の長期的目標は何なのか?フリードバーグは、東アジア、あるいはアジアの領主になることだとし、米国はその挑戦に気付くべきだと危惧している。
 ホワイトも中国の覇権挑戦を認めているが、もう少し穏当で、機会があれば挑戦するが、他のアジア諸国が黙っていないため、共存に必要な「適切に十分な」解を見つけ出すだろうとする。
 ヤンも二者に賛同する。三者ともに、不均衡な成長によって中国がパワーの再配分を欲しがるのだと認める。鍵となるのは、学者は、政策決定者と同じく、平和的な変化に対する効果的なメカニズムを学習できているかどうか、という疑問である。例えばホワイトは、ヴェトナム/フィリピンと中国間で紛争が米国の支援を導いて、大国間戦争に至るシナリオを描く。同盟の信頼性のために米国は戦争に巻き込まれるのである。


では、中国は、米国の覇権を狙っているのか?
ここも議論は分かれる。アジアのトップなのか、それとも世界大までその覇権を広げたいと考えているのか、人によって考え方はバラつく。
個人的には、中国側も決めあぐねているのでは、という気もしなくもない。

アジアにおける経済、政治、戦略的連関
 中国がアジア諸国にとっての重要な貿易パートナーになればなるほど、アジア諸国は戦略的連関も、米国から中国へと変えるようプレッシャーを覚えることになる。これはホワイトが提示した議論で有益なものである。
 ホワイトは国力は経済的なスケールを基礎的な源泉としており、中国の経済開放(貿易や経済援助)が政治的外交的影響を増加させ、アジア諸国は中国に敏感になったのだと主張する。
 これは標準的なIRの議論とは異なる。普通は経済的相互依存によって相互の政治的軋轢は抑えられるものである。そのためフリードバーグは、この状態を新しい状態だと描いている。ホワイトはこうした結論の出ない経済的議論に対して、よりローカルに観察する。すなわち、アジア諸国の人々は、中国の経済的な発展に憧れ、中国は戦略的にも上位へと相成ったのである。
 (この事実は、どうして米国がTPPに熱中するのか、の説明に有用である。この条約は、遅すぎ、また閉鎖的で、かつ米国産業の好むように構築されるようになり、進捗は遅くなっているが)
 ホワイトが、経済が政治を動かすのだと信じる一方で、フリードバーグはそうではないと信じている。


では、中国の経済的発展は国際政治にどう影響を与えているのか?
通常のIR理論では、経済的相互依存は、政治的な紛争を抑制する。しかしホワイトはこれに反し、中国の経済発展が中国のアジア諸国に対する政治的影響力の源泉となっていることを指摘する。
これは常識的に考えればそうだろう。政治的影響力は経済に依存している。では、この事実がIR的な経済的相互依存→戦争しづらい、という因果関係を否定しているか、というとそうでも無い。反論には弱いのでは?


民主主義と正統性
 フリードバーグにとっては、アイデンティティが大事だと考えられている。中国の非リベラルな独裁体制こそが、日本やオーストラリアと、中国とを決定的に分けており、米国にとって、排斥する理由に十分になるものだと主張する。
 ホワイトも民主主義による統治の価値を共有する。しかし、彼は分析的には、中国の政治体制は考慮に入れなくてもいいものと考える。経済改革が、何億もの人の命を救ったのだから、国民は政治的な正統性を認めているという事実の方が重要だからである。


非民主主義国家・中国の非正統性が米国による排斥の理由になるのか?
フリードバーグにとってはそれが最重要だが、ホワイトにとっては経済的な発展による国民の支持が大事であると主張している。
民主主義、好きだねー、としか。

アメリカの意見
 では、アメリカの意見は何か?
 ホワイトは、3つあると述べる。1.抵抗 2.アジア優位からの撤退 3.中国の役割を認めつつ、自身の役割も確保。
 フリードバーグも、中国への"覇権の割譲"を拒絶する。しかし、彼はパワーの共有も同じく反対する。なぜなら、米国が利益(同盟、市場、技術、リソース)を確保できるのは、卓越・優越だからである。フリードバーグは、地域覇権の維持を重視する。
 ホワイトの中心的メッセージは、優越が米国にとって賢い選択でなくなったということである。そして、アジアにおいて、「新しい足場」(パワーの共有)を維持することである。対してフリードバーグは、優越を維持することが、地域の平和と安定を確保するため、覇権の割譲はあり得ないものと主張する。
 しかしホワイトの「パワーの共有」は、些か説得力に欠ける。ウィーン体制のような制度論に立ち戻っているが、アジアの現状はその当時と同様ではない。既に米国による覇権が成立しているなかで、覇権の割譲は覇権戦争以外に道はない(ミアシャイマー)。また、米中日印の四か国協調を考えているが、それは中国にとっては、日印は米国サイドであり、脅威でしかない。パワーの共有は米中G2体制で上手くフィットするものだろう。
 ヤンは、G2でのパワーの共有を、協調よりも実用的と認めながら、ホワイトの議論も認めている。しかしパワーの共有は第一歩に過ぎず、フリードバーグの懸念よりも強く、全世界的な覇権を追求しているものと見ている。


アメリカはどうすべきなのか?
ホワイトは、「パワーの共有」、つまりちょっと中国に譲ってやろう、と言う。しかしフリードバーグは、これに真っ向から反対する。なぜなら、アメリカの利益はそのパワーの卓越性に根差しているから。パワーの共有は覇権国から譲渡できやしないだろう、と。
経済的に衰退し、絶対的な自信が無くなり始めると、もしかしたら、割譲している事実を許容できなくなり、排斥的になるかもしれない。いまは強者の余裕でそんなこと言ってられるけども。いまの日本を見てるとそんな感想が湧く。


ボトムライン
 軍事的には、中国は、米国優位を排除しようとしているし、経済的には、米国の役割を引き受けようとしている。そして地域覇権を目指している。これは三者が同意するところである。それでは、平和的移行の予測とは何か?
 フリードバーグは、5つの成功要素と2つの失敗要素を上げる。前者は、米中経済相互依存、中国の民主化、中国の国際制度への憎悪、共通の脅威の存在、そして核兵器の存在、である。後者は、国力のギャップの縮小と、イデオロギーや国内政治構造の深い差異の継続、である。特に、経済相互依存、核兵器、国際制度が協調に有用だと考えている。またホワイトは、ギャップの縮小を肝要と捉えている。
 これにより、「民主主義-正統性」および「経済的相互依存」が平和的移行に重要な変数であることが明らかになる。
 フリードバーグは、中国の政治的正統性につき問題にする。米国が中国の制度を受け入れられないとすれば、中国の覇権を許容できないとし、米国はアジアでの軍事的地位を維持すると結論づける。
 ホワイトの結論は別であり、中国もアジアも政治的正統性に疑問をつけず、米中は協働できるとする。米国は十分に大きく、賢いため、「パワーの共有」で中国の政治的影響を認め、その他アジアの国は中国の政治的影響に「適応」するだろう、と。
 冷戦との違いは、中国はその他アジア諸国と、イデオロギー的な違い(資本主義)がないことである。政治的な複雑性はあまり問題ではない。問題は、軍事的な心配、海上での紛争のみである(日本、ベトナム、フィリピン)。
 その他のアジア諸国は、中国に心配していない。「ヘッジ」をしている(米国とも中国とも上手くやる)。ホワイトは、米国が中国-アジア関係に入り込む余地は少なく、だからこそ、パワーの共有をしなければならないと考える。
 ホワイトにとって、平和的移行には「パワーの共有」がベストな賭けである。
 フリードバーグも、共有に反対しているわけではないが、中国がリベラルデモクラシーに移行した場合に実行するのが、より賢明だと考えている。そして、それまでは優越を維持することを支持している。ゆえに中国は、米国優越との共存か、対立かを選ばなくてはならない。
 ヤンは、両者に同意する。但しパワーの共有は踏み台であり、最終的には中国は覇権を目指す。中国の地域覇権は、政治的リーダーシップ、政策形成能力、道徳的な権威によって下支えされなければならない。それが非暴力的な覇権への道になる、と。


平和的に、二者の関係を移行させることはできるのか?
「民主主義」や「経済的相互依存」が大事だと、ホワイトは言う。分かるけど、お前ら、日米貿易摩擦忘れたんかと。あれを対中国にやったら、あんなもんじゃ収まらないだろう。
その他アジア諸国は、米中ともにうまくやるだろう、とホワイトは言うが、対立がもし始まったらそういう訳にはいかんだろう。
対して、フリードバーグは相変わらず、リベラルデモクラシーでないとダメよ、の一点張り。

 

結論
 フリードバーグとホワイトは、米国、中国双方にとって時間が尽きているという前提で描くが、著者(コーン)は、時間が双方に提供するものと主張する。中国は今は、米国に取って代われる状態にはない。ベストは、今後も6-8%の成長を続けることである。経済成長に焦点を当てることで、政治的な安定をもたらすのである。台湾問題というトラブルも、将来的に時間が(再統一という形で)解決するだろう。
 米国にとっても、時間が解決する問題と言える。つまり、アドバンテージは中国だけでなく、米国にも、富や民主主義、軍事同盟、ソフトパワーイノベーションの文化がそれだ。また国際制度も米国には有利に働いている。また、中国が変革するかどうかも、時間が教えてくれることだろう。そうして十数年という期間で考えれば、お互いの争いの切っ先も鈍ることだろう。米国の「アジアへのピボット」は、中国の「西へのピボット」(中央アジア等)を促し、東アジアの発展に全面的に依存することがなくなる。これらの地域への共通の利益を持つことで、「共進化」の余地が生まれる(キッシンジャー)。大事なのは、キッシンジャーが強調する、「内的な危急」である。中国にとって、最も大事なのは経済成長である。今後、米中のどちらが覇権を勝ち取るのか、それは、どちらが上手く政治や経済をコントロールできるか、に掛かっている。

 これを受けてのコーンさんの結論は、時が問題を解決するよ、と。中国の経済発展が継続すれば、そのうち穏やかになるんでは、と。
 何故なら米国は強く、そう簡単にはパワーの卓越を譲らないから。だから、「内的な危急」だけは気を付けて、ながーいお付き合いをしていきましょう、と。

 いいね、この強気。それまでの議論との繋がりを感じないが。
 まあ、米国が有利なのは分かる。経済情勢を見ても、まだまだ米国企業は強い。テクノヘゲモニー薬師寺泰三)はある程度は維持しそうだ。軍事同盟も、制度的な粘着性があり変えづらい。
 但し、もし米国が追いつかれて、失業が増えた場合に同じことを言ってられるのか、また、政治的に中国は国際制度をどんどん形成しており、米国を排斥した形もいくらか存在しつつある。AIIBなんかがそれだろう。政治的に、経済的に対立する図式は十分に想像可能だ。それが気になる。



次回は何やろうかな。検討中。

また勝手に翻訳 「優越か、世界秩序か? アメリカと中国の擡頭」 書評エッセイ ユエン・フーン・コーン(Yuen Foong Kohng)

Yuen Foong Khong, "Primacy or World Order? The United States and China’s Rise— A Review Essay" International Security Volume 38, Issue 3 (Winter 2013/ 14), pp. 153-175.
英語の勉強のため、まず序文のみ、抄訳を作成。訳文の推敲は一切していないので、その点はご寛恕を。

本エッセイの、書き出しは上海エキスポにおいて、中国が近年発展してきていることを紹介する。そのうえで、前記事にて名前を挙げた3者の認識について触れる。

>>アーロン・フリードバーグ、ハフ・ホワイト、ヤン・シェトン(?)はいずれも共通認識として持っている。『支配への競争』にて、フリードバーグは、「もし中国が現在の道筋を行くならば、つまりリベラル・デモクラシー無しに、もっと豊かに、もっと強くなるならば、いま弱められている米国との敵対関係は、より開放的で、より危険になっていくだろう(2頁)」。『中国の選択』においては、ホワイトは力の抜きん出た米国は、中国の長期的-戦略的目標になることを認めており、彼にとっては、敵対関係は既に弱められてはおらず、両方ともが現在のあり方を変えない限り、戦争は避けられないだろう、とする(4-6頁)。フリードバーグもホワイトも、中国の覇権的な意図という主張を、ヤンの『古代中国思想、近代中国の力』から検証している。フリードバーグに中国の保守主義をリードする存在として、また何人かの米国人からは中国のフリードバーグとして描かれているヤンは、古代中国の思想家から現在の中国の力の行使についてインスピレーションを得ている。

学術雑誌のInternational Security がKindleで読めることに気づいて捗る

随分と廉価で読めることに気付いた。
本当はInternational Organization(IO)が読めればベストだったのだが、ISも比較的理論的で、Impact Factorも低くないので、読めるとなると非常に捗る。

論文を書く段になるとこういう読み方は普通はしないだろうが、教養の蓄積のため、試しにInternational Security 38-3を購入してサマリーを簡単に読んでみている。
全文を読み切るには、英語が不得手でかつ時間に制限のある身のため、難しい。

1つ目は、進化生物学を援用して領土紛争を説明した論文。IR理論の拡散ぶりに比べて、人の領土への所属だけは歴史を通じて共通している。領土を巡るやり取りには3つの特徴があり、(1)Animal Kingdomにおいて共通で、共通の戦略的な課題に対する解決策の収斂がみられること、(2)進化ゲーム理論における「タカハト」ゲームが支配的であること、(3)戦略的ロジックに基づくが、過去の費用対効果の計算は過去のものであり、現在のものと異なること、というのがある。そこからIR理論への新しい予測を示すもの。

2つ目は、実験によって、パンデミックを引き起こせる鳥インフルエンザの開発をした研究者が出てきたことを受けて、アメリカにおいてその危険性について検証がなされた際の含意についての論文。一言で言うと、バイオに係る安全保障について考えたとき、専門家の知識を政治に活用するノウハウも無ければ、組織も無い、ということに気付いた、という話。
(関係ないがウルリッヒ・ベックもそんな警鐘を鳴らしていたような記憶がある)

3つ目は、国内の民族紛争(訳語として適当かどうか?)・社会運動における、成功の要因について分析した論文。共通の目的に対しては、階層性、ヒエラルキー性、および集団の数こそが大事、という話。上下関係がはっきりすることで戦略目標が明瞭になるため、運動の成功をもたらす、という話。パワー配分というIRが好む分析枠組みが社会運動においても有用、というところが新規性なのだろう。分析対象は、パレスチナアルジェリアにおける16の集団・17の運動について、らしい。

4つ目は軍事改革の達成と政軍関係の関係性についての論文。16-17世紀のヨーロッパおよびオスマン帝国の軍事改革の成功および失敗を見比べた際、オスマン帝国は軍隊の発言力が強く、政治による軍事改革が達成できなかったのに対し、ヨーロッパの大国は軍隊が弱く、軍事改革を進めたそうな。これはもしかしたら、今の日本の議論にも適用しやすいかもしれない。

5つ目は書評エッセイ。フリードバーグ『支配への競争』(日本評論社)、ハフ・ホワイト『中国の選択』、ヤン・シェトン『古代政治思想と近代中国の力』を比較したものになっている。著者によると、これらの3つの著作は4つの問題(①世界的なパワーの配分の現状、②中国の戦略的目標、③アジアにおいて経済的相互依存のもたらす効果、④民主主義と政治的正統性の間の関係)について異なる前提条件に基づいている、とのこと。これを明らかにすることで、我々の政策における選好をも明瞭にする。そしてこれらを米中が理解することで、平和的対立・共進化が改善する。とのことらしい。



今、どれかを真剣に読もうか、と考えている。とりあえず5番の結論が何のこっちゃ分からないので、これから取り組もう。
ここで書いていくものと思う。

以上

これね

支配への競争: 米中対立の構図とアジアの将来

支配への競争: 米中対立の構図とアジアの将来

本当に国際関係理論は必要なのか?

久しぶりに書く。

 この世の中のほとんどの国際関係理論を腐してきた当ブログであるが、結局のところ、ここに辿り着くのである。すなわち、一体、国際関係理論はそこまで大切なものなのであろうか、と。私はこの数カ月、この問題について考察する必要に駆られていた。そこで本稿では、それの極一部を掬い取ってここで書き散らしてみたい。

 そもそも、このような問題意識を抱く切欠とは何だったのか。それは過去に何度となく登場してきたウォルツに関する再考であった。ウォルツは漸く、国際関係理論を社会科学たらしめ、そして一般化を果たしたがために、非常に容易な予測も可能にせしめた。それでは国際関係論者は、どのように国際関係を考察するのだろうか。
 基本的な流れはシンプルである。ある国家がパワーバランスを乱している。それに対して他国は、内的バランシング(増強)か外的バランシング(同盟)という二つの手段を用いて対抗する。大国が多くの小国を束ねているため、そこで見るべきは少数の大国による秩序だけである。
 こうした議論に後年、さまざまな枝葉がついた。いやいや、パワーバランスではなく脅威こそがバランスされるべきものである、とか、国家についてはバランスを目指すという仮定よりもより拡張的なイメージを抱くべきである、とかがその代表的なものである。

 彼らの議論は、概して単純で、単調である。理論は単純でなければならないという、不思議なテーゼが信じられ、そして実現されているのである。だからこそ現実の国際関係について考察するとき、彼らは非常にシンプルな考えて以て予測を行う。曰く、「彼らは拡張的な国家であり、パワーが追いつかれそうなので危険である」とか、「いやいや拡張的ではあるが、そのようなつもりなど全くないし、危険視する必要性はない」とか。
 見れば解る通り、前提がまず揃ってないのである。そして理論の前提を揃えることは不可能に等しい。あくまで前提を規定した上で何が言えるかを論理的に問うのが求められることなのであり、前提についての「正しさ」は誰も、論理でさえ担保できない。だからこそ議論の前提はズレ続けるのである。

 議論についての前提が揃えられないならば、予測において重要なのは、それでは現状はどの前提に基づいた議論に近しいのかということを探究することに過ぎない。これはまるで、「地域研究」の領域ではないか。つまり、あの国はどのような特徴(前提)を有しているかを考察するということにおいて、もはや国際関係理論が出来ることは少ない。いったい国際関係理論は、地域研究よりも予測において優っている部分が存在するのであろうか。


続きは次回に譲るが、書き進めるにつれ、議論が泥沼に嵌る嫌な予感しかしない。

現実主義者とリアリスト

 どうにも現実主義とリアリズムという二つの表現が、一般的に違う意味を持っている気がしてならない。この定義を曖昧なままにしておくと、今後の混乱を引き起すことが必至であると思うので、ここではっきりとさせておきたい。以下の文章は、別の機会に書いたものを改変して載せているので、ちょっとキッカイな表現があっても許して下さい。

●現実主義について
 国際政治において、「現実主義」という言葉の定義の振れ幅は大きい。例えば、国際政治学の祖と呼ばれるE.H.カーとモーゲンソーの二人の間においても、持たれるイメージが同一であるとは言い切れない。カーによるとリアリズムとは、願望を示したユートピアニズムに対してより現実の分析をする思考として語られるものであり、願望に対する反動として、道徳的判断を排したものとして捉えられる 。その一方でモーゲンソーにとってリアリズムとは権力政治と国益の追求によって理解されるものであり、科学的アプローチに基づいて議論するものという点では大差ないのだが、しかし、ときには当為命題を含むものとしてすら語るという点ではカーとは異なると言える 。また、モーゲンソーの国益追求の議論を徹底的に演繹した立場にあたるのが、ウォルツに代表されるネオリアリズム(あるいは構造的リアリズム)である。彼は国際システムを、アナーキー下において国家が生存を追求する環境として捉えたのだが、一方で、別に彼はこれを当為命題とはせず、また単なるモデルであり歴史事実とは異なっても議論そのものには支障がないと主張した点で、前者二人とも大きく異なる 。かように国際関係論における、代表的な論者三人を取り上げただけでも相反する議論が多く含まれている。
 さはさりながら、この三人を同じ類型に収めてはならないというわけではない。類型化において、少しでも異なる意見を持った論者を排するのでは、その作業は到底不可能になってしまう。しかしながら、以上の議論を踏まえたとき、リアリズムにも異なる二つの潮流があることは理解しないと今後の議論が恐らく混乱するため、ここではっきりさせておこう。一つは国際関係論における非常に一般的なリアリズムの捉え方である、国際政治を権力政治であると認識し、国益の追求を重要に思い、道徳を前面に押し出さない立場である。上述のモーゲンソーやウォルツの議論はこれに該当するのに加えて、その後の北米のリアリズムの継承者はおおよそこれに該当しよう。そしてこれとは別の潮流として─語源的には正統であるのだが─、リアリズムを、願望的な主張に対して、現実を見据えることやその実行可能性を重視した立場があろう。本報告では今後、便宜的にこちらの立場のことを、括弧を付けた「現実主義」として、前者の「リアリズム」と差異化することとする。
 リアリズムもまた、現実主義と同様に様々な議論を内包している。例えば国家に関する認識にしても、ビリヤード・モデルとして捉えるのか、それとも国内の要因について考慮するのか 、目的は生存(安全保障)なのか、それともパワーの最大化なのか 、様々議論は分かれるところである。このように前提とするモデルにある程度の相違点はあるが、とは言え、アナーキーや権力政治、戦争という要素を強調するという点においてはある程度コンセンサスがとれていると見てもよいだろう。ワイトはこの立場を、マキャベリ以来続く伝統的な発想であるとして類型化し、マキャベリ主義者とも言い換えた 。
 同様に、「現実主義」者も様々な議論を持ちうる。それも当然で、現実の分析もしっかりと行うべきという議論は、その過程さえ細微に説明できるのであれば、あらゆる問題を内包しうる可能性を秘めているからである。そのため、「現実主義」者が持つ射程は異様に広く、誰がそう呼びうる存在なのか、その判断も難しい。戦後日本には、「現実主義者」と呼ばれる代表的な学者が幾人かいた。高坂や永井、神谷などがそれに該当する。彼らの主張は似ており、理想を訴えることは価値のあることであるが、それだけでなく現実としての国際関係を把握して、そしてその達成方法についての議論を着実に展開すべきだということである 。彼らはいずれも日本という国の制約性を踏まえており、ただのリアリズムに留まらず、経済的な相互依存や世論に訴える力などについても焦点にあてていたのであり、その点で大いに「現実主義」者だったと言える 。




●「現実的」であること
 現実主義の議論において、二種類の陥穽が指摘されている。一つ目は国家が国益を目的にすることの根拠が不足している点である。つまり国益の追求に関して根拠もないままに、モーゲンソーは「指図」し、ウォルツは前提としてしまっていることが問題であるというわけだ。それから二つ目は、手段にパワーを用いることの欠陥点および根拠不足である。つまり、欠陥点としては、平和を目指すために自国の安全保障を高める議論が現実主義者から提示されているが、そのために自国のパワーを高めれば、結果として相手のパワーの増強を呼び起こし、安全保障のジレンマを引き起す可能性があるという点においてこの議論は好ましくないということである。また後者については、構成主義の議論を援用することで、脅威というものが認識によって構築されたものである以上、相手を敵と見做してパワーを用いて対応する必然性はないということである。そしてこれらから、現実主義の「非現実的」な部分を指摘されている。
 恐らくこれらの議論は個別的には適切と言える。例えば、国家が国益の追求を前提とすることや、パワーを用いた安全保障が必要だと判断することは、あまりに当然の前提となってしまっている。これに対する別の見方が存在することは、構成主義の観点を採用しなくとも、どちらもワイトが50年以上前から指摘するところである。彼は国際理論を、現実主義(Realism)、合理主義(Rationalism)、革命主義(Revolutionalism)という三つの伝統に分けてそれぞれについて分析をしたのだが、例えば革命主義の立場に立てば、国益とは国際共同体と利益の一致こそを最も重要視し、パワーの使用は自己正当化されない。異なる前提で成立する国際関係が存在する可能性など、とうに把握されていた問題である 。それから、安全保障のジレンマについてであるが、こちらも議論そのものは適切である。すなわち、相互にジレンマに陥って、結果としてエスカレーションしてしまう可能性は間違いなくある。理論的にも歴史的にも確認されるところであり、この問題についても議論がよく重ねられてきている 。
 しかしこれらの指摘はいずれも、リアリズムおよび「現実主義」が現実的かどうかの批判としてはあまり核心的なものとは思われない。第一に、批判自体の弱さについてである。この批判は、現実主義の議論の穴を指摘したようにされているが、以上からも解る通り、現実主義とは非常に広範に亘る立場を指す。であるにも関わらず、この批判で相手とするのはあくまで理論化されたごく一部のリアリストである可能性がある。特に構成性に触れてリアリストを非難している点について、アメリカの国際関係論の系譜から考えると、極端にウォルツ流の構造的リアリズムが広く流布したのちに、それに対する有効な反論として出て来たのは事実である。しかし一方で、むしろウォルツというのがリアリズムの系譜の中で異端なのであり、リアリズム学派自体は本来、構成性の問題についてある程度考えてきたのではないかとする議論もある 。近年のリアリズムも、心理面により考察を深めようと尽力をしている最中である 。また安全保障のジレンマについても、確かにそのような事実はあれども、これがすぐに現実主義の欠陥として説明がなされるのは少し言い過ぎに思う。すなわち、これに関する乗り越えの可能性についてこそ、国際関係論におけるリベラリスト が懸命に取り組んでいるところであり、例えばレジーム論であったり 、ゲーム理論的な分析 であったりによって、自国の安全保障を整備してもなおジレンマに陥らないような議論を構築しようと尽力されているところである。リアリズムの議論の発展を踏まえずに、その難点からリアリズム自体の欠陥であると指摘するのは、いささか建設的ではない。
それから第二に、他の選択肢との比較不足の問題があろう。こちらはより深刻な問題であり、確かに現実主義には他の可能性が用意されうるのだが、しかし難点を指摘するだけでは「現実的」問題の解答としてはあまりに「非現実的」ではないかという点である。いくら他の可能性について指摘したところで、ある発想が現実的かどうかというのは、その実行可能性がどのくらいあるのか、特に現代においてはそれを誰が賛同して支援するのかという問題を考慮しなくてはなるまい。そして現実政治は常に決定/非決定することが求められるが、もしある発想を非現実的と否定するのなら、代わりの発想が現実的であると賛同されなければならない。
ちなみに本文は現実主義の優越性について論じたものではない。確かに上述のように書いたが、これはあくまで現実的な理論というものに関する一般的な考察であり、その他の理論においてもこの論理をもって説明できるものである。基本的にあらゆる立場の理論家が、自分の理論がより「現実的」である、実行可能性の高いものであると主張している。リアリズムが特別、「現実的」であるかどうかは、また別の考察が必要だろうし、恐らく時代や環境によって大きくその結論は異なってくるだろう。少なくともワイトは、三つの理論家おのおのが、自分たちが最も現実的であると主張し合っている状況であり、そもそも現実的とは、見る人間の視点によるものだと論ずる 。




●現実的な平和論・再考
 以上、複数の国際関係理論家による、複数の国際政治の語り方について見て来た。最後にこれらについて、現実的、という視角から平和論について振り返ってみたいと思う。
 伝統的なリアリズムと「現実主義」者にとって、平和とは目指されるべきものである。モーゲンソーは強く道徳という目標から、カーはユートピアニズムとの不断の対話によって、高坂は価値という観点から、平和を語った。しかし三者とも、直面していたのは現実の、目の前にある権力政治であり、保有されて効果を持ち続けている軍備であり、そのためにいかにしてそれを抑制しつつ対処していくべきか、ということを考えざるを得なかった 。
 とは言え、これまで平和主義者と言われてきた人々も、国際関係論的リベラリスト達も、決して皆が目の前にある現実の不都合に目を瞑ってきたわけではない。むしろ現状の厄介な状況に対してそれを改善すべく考察をしていた。「現実主義」者の保持する、「現実」に対する屈服的な態度に反対しつつ、彼らなりの視角から「現実」を語り、その改善による平和を謳った 。
 現実的ないことをものともせず、最も自信を持って自分達の視角からモデルを提示したのはネオリアリズム(構造的リアリズム)だった。ウォルツははっきりと、現実に即していなくても、自分の議論には何ら影響がないことを主張した。とは言え、その後の論者たちは彼ほど理論家としては立ち振る舞わず、より「現実」的に、国内情勢などを配慮する議論を提示した。しかしそんな彼らでもやはり平和を無視していたわけではない。純粋にモデルから演繹して、平和がどのような場合にありうるのか、検証し、そして政策として主張したのである。
 ポスト冷戦期になり、リアリズムの理論が構築された前提が異なっているいま、別のモデルの構築の余地は存分にある。その結果、大国どうしの安全保障ではない問題というのが、多く俎上に上がっているのが現状である。環境問題や人道的問題、経済問題などは、グローバルな問題として、諸国が結束してどのように解決するか話し合われている。例えば破綻国家の問題に対して、あるいは発展途上国での紛争問題に対して、その難しい現実を踏まえたうえで、国際制度を使ってどのように対処すべきなのかという議論は多く語られている 。そこにあるのは、非軍事主義では決してないが、だからと言って、非平和主義でもない。より現実的に、軍事についても無視することなく、目標を達成する方法について考察されている。
 国際関係論はあまり平和を主眼として語る学問ではない。最もよく語られるのは戦争であり、危機である。人類が戦い続けてきた過去を踏まえる以上、人間観については悲観的である。しかし同時に、それらの原因を探ることで未来へと繋げようとする、一つの平和論でもあると言えよう。